我が家の裏に:血のつながりはない:「家」の親戚が住んでいた。
そこの息子が医大で内科のインターンかもうちょっと上のお医者さん。
その内科の「お医者」さんが父に
「斜視は手術で治る、早いほうがいい」
と一般的な知識で手術をすすめた。
私の斜視は治るものではない。
たとえ一時期みてくれがよくなっても
白内障による左右の視力差が解消しない限り戻ってしまう。
そのことはすでにわかっているはずなのに
父は見てくれの悪い斜視にどうにもがまんできない。
そりゃそうかもしれない
目が曲がっているだけで 自分の娘が将来娼婦になる
なんていう目で見られたら耐えがたい。
生まれなきゃよかった と思ってももう遅い。
江戸時代じゃないのだから捨てるわけにも行かない。
そんな風に思っても何ら不思議ではない。
生きてしまって ここに居るのだから、
そのキモチを抑えるのが人間というものだ
と 心得よ
父が(素直に)少しでも見えるようになってほしい
と願っていたろうから責めるわけにも行かない。・・
まあ、見てくれ100%だったんだけど 言わない、知らない
しかし、医大の方はおかしい。
それまでの医療機関でことごとく、「この斜視は治らない」
といわれているのに なぜこの医大だけが
「手術で治る」と言ったのか。
内科の先生はともかく眼科が治ると思うはずがない。
スタートから間違っていた。
というわけで
小学校2年の4月 ひと月医大に入院した。
専門の方は まず、斜視にひと月の入院? と
疑問をもつのではないだろうか。
目の外側の手術だから 昔だって一週間だ。
私が 「今」とか 「このこと」
という「点」に生きるタイプだから
入院生活を悪かったとは言わないけれども
配慮というもののかけらもない
踏みにじることしか知らない医者を
今でも医者の資格のない人間と思っている。
生後手術をして下さった先生との出会いがなかったら
眼科医 あるいは医者すべてを信用しなくなったかもしれない。
大人になって
医者の良し悪しを私個人の尺度で白黒はっきりさせて
信頼できないとおもう医者には
途中で帰ってでも、たとえ治らなくても
世話になりたくないと思うようになった基礎作りの入院だった。
私は自分の担当医の名前を思い出せない。
一月も付き合ったのにその一字さえも思い出せない。
10年後に偶然会った時はちゃんと覚えようとした。
そのとき、今後出会わないために名前は覚えておこうと思ったのに
白衣に黒ズボンも怪しいくらいに 覚えていない
もし開業していて (間違ってでも) 出会うことのないためには
名前は覚えるべきだと思うのだが・・・。
この先生の呼び名を考えた
虻・蚊・蝿・蛇・うーん 蠅 にしよう
うるさいけど☆にはたたけない
偉そうに頭の上を飛ぶギンバエ
大きいのにはえたたきでは間に合わない
フフフ
昨今は殺虫剤で家内全滅を目指して頑張るのだ