雪合戦と火お越し

☆の家の裏には広い田んぼがあった

こんな所になぜ田んぼ、と言う程市内のど真ん中,住宅一等地だ

 

戦後のベビーブームで子供があふれ、収容しきれなくなった生徒を分散するために新しい小学校ができ学区が分かれた境目に田んぼがあった。

つまり田んぼの向こう、我が家の裏は学校が違う

高学年は昨日まで同じ学校の生徒だったから顔見知りである

 

冬が来て田んぼは真っ白に染まり子供の遊び場になると休日は雪合戦が行われる

 

近所の小学生全員かと思うほど集まってそれはもう盛大な雪合戦だ

 

広い田んぼに雪はいくらでもあり

どこにも誰にも迷惑がかからない

 

☆は楽しくてしょうがない

 

敵味方は学校で分かれる

実にシンプルで昨日の友は今日の敵なのである

高学年が前に出てずらーっと並んでバリケードを張りながら攻撃する

低学年は後ろの安全地帯でせっせと雪玉作りに精を出す

向こうの学校の生徒が隙間を狙って無防備に雪玉作りに夢中な☆たちを狙って雪玉を飛ばす

堅くて痛い

☆は負けじと堅い雪玉を作るのに専念する

☆は凝り性だ

どうすれば堅くなるか、

どうすればまん丸になるか

どうすればお兄さんたちが喜ぶか

 

もしかしたら 同じ低学年も雪合戦に参加していたのかも知れない

☆は周りが見えないから雪玉作りを命ぜられ黙々と雪玉を作り決められた場所におく

☆の作った雪玉はすぐに使ってくれるから☆はせっせと よそ見もせずに 雪玉を作る

 

言われたことをタダひたすら繰り返す

その姿は「知能指数の低い子供」の行動であり 他者に「バカ」と言う認定をされてゆく。

☆の知ったことではない

☆は清らかにバカなのだ

盲のバカには上級生はとても優しいのだ

 

☆は雪玉を作るのがうまくなった

研究にいそしみ遅いからあまり役には立たなかったと思うが・・・

 

時間が来るとさっと終わる

勝ち負けはない、たぶん

 

当時のこたつには棚つきで 洗濯物が干せるようになっていた

雪で固まったマフラーを取ってこたつの中に入れる

 

 

☆!!

???

雪を取ってからこたつに入れなさい

火が消えてしまう

こたつの布団を上げるとほわほわと湯気が出ている

 

うん、すてきだ

 

雪は溶けると水になる

水は上空にとどまっていない

☆は少し勉強した

だって・・マフラーに凍り付いた雪なんて☆にはとれない

仕方がないじゃないか

☆は密かに反省しない

 

 

☆は火お越しを教わった

コレがまた楽しいのだ

筒を持ってフーフー

吹くたびに炭が赤く光る

ちっとも制裁になってない

 

大人はいいように☆を使い

☆は楽しく懲りまくって大人の意図などつゆほども知らない

 

☆は体験学習が大好きで平和である

福島県泉村 昔話の景色

福島県泉村 昔話の景色

 

福島県泉村へは常磐線でいく
東北線の仙台から海のほうにぐ~~っと折れていく
鎌倉生まれの母から見ればド田舎のようだ

そこに父の実家がある

 

小学校1年の夏休みは父の実家で過ごした

〈父は、父の母方の跡取りである〉

父方の総会のような行事が祖父の家で行われた

親兄弟の親睦会なのだろう
地理的都合&交通事情などもあっで

到着して用事がすんだらすぐ帰ると言うわけに行かない一週間くらい父の兄弟およびその家族数十人が滞在した

 

初体験満載の夏休み

☆の子守約の姉は泉駅から家までの道を
「正規の通路」「近道」「景色のいい遠回り」
と幾通りか教えてくれた
ある限りの道をしっかり教えておけばほおっておける
「突き当たったらどっちへ曲がる」
とか、何本目・橋のところから のように教わる
駅から左に離れなければ家は見つかる
基本的に私は上を見ない

ひたすら足下を見て歩く 

視力があろうがなかろうがそれで家に帰れる

迷子になったらその辺の家で聞いて駅に行けばよい

泉駅までの道を覚えると出歩くようになった。
姉の信頼が強いのと田舎では迷子の心配もないのだろう
ほっとかれたのがには幸いした。

家を出たらいったん駅まで行く
最初からあっちこっち歩いたら帰れなくなる
駅を出てまっすぐ進むと右手に中学校がある
泉中学校 父たちの母校らしい
そこを右に曲がって進むと川があった。
川の向こうには緑が広がっている

じっと見ていると緑は山のようだ

姉と一緒の時に「あそこにに釣をしている人がいる」

と教わった

人がいると教えられて人を探す。
流れの真中にも人らしいものがいるのをみつける


どうやってたっているのだろう
水の上にたっているようにしか見えない 

釣りを知らないからじっと動かないのが不思議でならない
待てど暮らせど動く様子がない
釣り竿が見えないから ただただ居る〈ある〉だけだ

 

「朝早く川に行くとすごくきれいだよ」
見つかると叱られるから そっと抜け出すんだよ
教えてくれたのは当然姉だ
食事の時間には戻ってないと叱られるよ
と注意事項もくっつく

さっそく次の日実行だ
祖父はとてつもなく早起きで抜け出すころには起きていた
見つからないようにそっと出て川へ向かう

川は静かだった
駅から川に来たときの位置から左はじきに曲がって何もない
橋がひとつあったけど 限定で通行止めなので景色の一部
右は明るく川はくねくねどこまでも続いている
早朝だからかもやに包まれてすべてがボーっとかすむ
ぼやけた灰色の世界
暗いわけではない 
足元がぼやけるほどではなく
川から向こう岸がもやに包まれている
山はかすんで輪郭がぼやけ空との境がはっきりしない
釣り人は動かずすべてが絵だった
大きな絵本の中に自分を置いて山の空気を吸う

何を思うでもなく ただぼやけた世界を眺めるだけ
それがすばらしくいい時間だ

飽きてくると家に帰る
そのころになると大人は朝食の支度で忙しく働いていた。
小さくなって家に入り、今起きた顔で挨拶する
・・そうか!このころからこんなこと覚えてたんだ・・
すっかり早朝の散歩がが気に入って滞在中の日課になった

今でも昔話の山村の絵はこの景色が土台になる
やっぱり本物は焼きつき方が違う 
動かない景色でも生きている、と感じるから

体育の水泳は川で

小学校にプールはない

何処の小学校にもプールはない

夏の水泳教室は二時間続きで川へ行く

 

雫石川は北上川に合流するまで水が飲めるほどきれいな川だった、むかし。

学校から歩いて10分の所に雫石川の終点がある

雫石川・北上川・中津川が合流し北上川となって宮城県の海までながれていく

雫石川の終点は採石場になるまで川底は滑らかな小石でなだらかだった

学区内で学校からも近く景色も良く プールよりずっと気持ちよかった

 

水泳の準備は教室で荷物の確認

身体を拭くタオルと換えのパンツ

 

ズボンじゃないよ

下着のパンツ 女児はズロースというか、快適工房のゆったりでしっかり木綿のババパンツ

ショーツ成る横文字品が存在しなかった時代だからね、

下着のパンツとズボンのパンツではアクセントが違うとか?発音したのを聞いたことないから文字上一緒で不便きわまりない、

日本語がいい

パンツ 日本語知らない 昔はなかったからね 

 

タオルも良くてバスタオル、なければ普通のタオルでOK

 

話を戻そう

 

パンツとタオルと浮き輪を手提げに入れて一クラス50人、学年ごとだったりするから250人 テクテク10分で川に着く。

服を脱いで朝からはいているパンツ姿で注意事項を(たぶん)たくさん聞く

準備体操をしてやっと川で遊ぶ。

先生の合図で川から出て服を着て学校へ帰る。

???ええと

パンツはいつ履き替えたんだろう

とんと記憶がない

ただの河原で250人も着替えるんだからね

壮観?

上級生はどうしたんだろうね

 

 

二年生になって

採石場になって危険だから遊泳禁止。

だから、勝手に行って川で泳がないように、と釘を刺された。

小学校にプールができて川の水泳は一年だけだった。

 

友達と=堂々=川で水遊びをした。

2年間学校が好きだった

☆の席は黒板が一番よく見える席 17番の席じゃない

森田先生はいう

☆さんは目が悪いので席は黒板が見えるように一番前にします

☆さんは目が悪いけれどもほかはどこも悪くありません

走ることも同じにできます

鬼ごっこもかくれんぼもみんなとできます

 

席替えがあっても☆は定位置でクラス内に疑問がない

 

☆は森田先生がいた2年間特別を感じたことがない

特別なのはあつ子さんの最初のころとじゅん子さんだけだ

2年間だけめいっぱい学校生活を楽しんだ

幼稚園の頃の疎外感を思い出すことは皆無だった

 

 

心臓弁膜症のじゅん子さん

じゅんこさんは順番通りの席にいた

目が悪いわけじゃないし 足指が足りないわけでもないから当然だ

ちっちゃな身体で全校朝礼は一番前確定

とっても優しくて☆はすぐ友達になった

 

じゅん子さんとはしょっちゅう二人で話をした

友達から特別の仲良しになった

じゅん子さんは心臓弁膜症といって身体が大きくなると死んでしまうと言う

いつも死と向かい合わせで生きていると言う

☆は「死」がわからない

じゅん子さんは「死」と向き合っている

本当は学校にも来れないらしい

けど

じゅん子さんは学校に通って友達を作っておしゃべりをしたかった

だから両親におねだりをしたのだそうだ

 

ある日 ☆は校庭を突っ走っていた

☆は元気だ 走ることが大素手だ

そして石が見えないのだ

膝は擦り傷と打撲でいつもかさぶたがあるくらい走るのが好きだ

学校の校庭は足が引っかかるほどの石がほとんどない

だから おもいっきり走っても転ばない

☆は校庭が大好きで 用もないのに走り回った

滅多にない石につまずいてすっ飛ぶほどひっくり返った

運悪くじゅん子さんが二階から見ていた

じゅん子さんは自ら走って一番に駆けつけてくれた

「☆さん大丈夫?」

ちっちゃな身体で手をさしのべてくれる

おもわず じゅん子ちゃん、走っちゃだめ」

じゅん子さんの手は うれしそうで悲しそうで とてもあたたかい

私はほっておかれ先生はじゅん子さんを保健室へ抱いていった。

その後いつまでたってもじゅん子さんは学校には来なかった

じゅん子さんに会えたのは季節が変わってから

「わたし 生きたい」

じゅん子さんは生きるために名古屋と言うとっても遠い病院に行くことを決めたと言う

そこは病院学校があって 入院しながら勉強ができるそうだ

「病気も治して 学校にも行って また☆さんと逢いたい」

それがじゅん子さんとのお別れの言葉だった

2年生の終わりに転校していった

森田先生は じゅん子さんが生きることを望んで手術を受けるために両親と別れて遠い病院へ行きます。また会える日を楽しみにしましょう

と送り出した

4年生で亡くなったと聞く

クラスの障害児は☆一人になった

 

森田先生はじゅん子さんの家にも頻繁に訪問し励ましたという

自宅療養が望ましいが、いずれ、たぶん10才を超えられない命

ならば 生きる喜びを知ってほしい

一日でも長く生きてほしいが檻の中で死ぬために生きるのではなく

希望を胸に「生」を望んでほしい

死を覚悟した7・8才なんて胸が痛む

少しでも同じ年代の輪のなかで輝いてほしい

森田先生はそう思ったそうだ

当時 先天性の心臓弁膜症は10才を超えられない

10才ころに人の身体は大きく成長するらしい

それに心臓が耐えられないと言う

諦めることをやめたじゅん子さんは☆の星だ

 

その年度で森田先生は教師を辞めた。緑内障が進んで限界だと・・

 

 

足指4本のあつ子さん

席順2

担任は森田先生=故人

男女並んで1つの机。

横4列8人縦6列+ だった たぶん。

☆は窓から2列目の一番前で17番目じゃない

前列廊下から2番目の一番前の女子も順番じゃない

 

森田先生 ☆さんは目が悪いから黒板が良く見える席です

☆は考える、目が悪い?私見えるよ

☆は「めくら」の意味をまだよくわかっていない。

「見えない」の意味も状態」もよくわかっていない

全然わかっていない

でも☆は特別が心地いい

森; あつ子さんは足の指が4本しかありません

でもほかはみんなと変わりないです

じゅん子さんは心臓が悪いので走ることができません

じゅん子さんはおやすみも多いけれど仲良くしましょう

的なことを言った

 

さあ 休み時間はあつ子さんの足が見たい

あつ子さんは靴下をはいていない

一番前だから見学スペースは十分ある

廊下側に近いのはよそのクラスからも見学客があふれるからだ

数日間 あつ子さんは見世物になった

☆はみたい みたい みたい

けど 見えない 足の指の本数なんてわからない

靴下をはいていない足は見えるのに指の本数なんてわからない

大きい学年の生徒も並んで見に来るのに☆には見えない

具体的に「周りとの違い」を教えられる

数日もすれば見学客も来なくなる

あつ子さんは平和を手に入れた

誰も足指の本数など気にしなくなり、そのうちに違いなど忘れられた

あつ子さんはとっても元気で友達もたくさんできてただの人になった

障害者位置抜け、一抜けたー クラスの障害児は二人となった

 

あつ子さんのお父さんは☆に語る

森田先生は入学前 かなり長い時間をかけてあつ子さんの両親と掛け合ったそうだ

毎日家を訪問し あつ子さんに靴下をはかずに学校に来るように諭したという

いやがって泣くあつ子さんに 一週間がまんすれば誰も気にしなくなるからがんばろうね、と、それはもう 毎日かかさず説得に来たそうだ

根負けしたあつ子さんは約束通り入学式の翌日から靴下をはかなかった

教室は休み時間のたびに学年関係無くあつ子さんの足を見に行列ができた

「足の指が4本だって、どの指がないのかな」と話声も聞こえる

あつ子さんは下を向きながら足を隠さず耐えた

☆は満足して通り過ぎる人たちを見ていた

森田先生は人だかりがなくなるまで あつ子さんの家庭訪問を続け励ました

あつ子さんんのお父さんは「いい先生と会えて良かった」と何度も言う

一生かたわで形見の狭い思いをするのかと心配したけれど、あんなに元気に裸足で走れるようになったんだからこれからも大丈夫だろう、

最初はね、さらし者にすると聞いてほんとうに怒った

なんて人が担任になるのか、と だけど熱心でね

『自分も緑内障があって視力がどんどん落ちてきて

ほかの先生たちにいやな目で見られてつらい思いをたくさんしているけれど助けてくれる人もたくさんいてね、理解しあえることが大切だとわかったんです』

と言われて ならば賭けてみるか ということになって、あつ子も折れてね

森田先生は学校でもすごく声をかけてくれて

毎日家にも来てくれて励ましてくれて もう足のことなんて気にしなくなって・・・・・

 

☆は心からうれしい

おじさんからお話を聞いたのは小学校3年生だったけど、おじさんのお話はとてもあったかくってうれしかった

あつ子さんとは4年生のクラス替えでさよならだった

☆は結局足指4本を見られなかった 残念なのは言うまでもない

☆は正直なのだ

 

おじさんはなぜ難しいお話を☆にしてくれたのだろう

きっと☆にも元気に生き抜いてほしいと願ってくれたんだろう

乗り越えたあつ子さんとはちがい、これから先に来るであろう世の中の重圧に耐えるように、乗り越えるきっかけになるように、きっと心を込めて話してくれたのだろう。

ありがとう あつ子さんのおとうさん

 

 

出席番号と背比べ

席順 1

 

学校は最初出席順に席を決めている。

出席順とは生まれ順。男女それぞれ1番から25番くらいまで

4月二日生まれがいれば未来永劫一番で4月一日生まれは最後になる。

子供だから一年の成長は目に見えていて後ろに行くほど小柄になる傾向があるが椅子なので問題ない。

しかし、立って並んだばあい頭がでこぼこに並ぶのは美しくない

そこで 全校朝礼などでは小さい順にならぶ それはかなり厳格で毎週の全校朝礼の時に担任が確認し入れ替える。

いつもちっちゃいのは一番前で背高のっぽは一番後ろ 毎週入れ替えがあっておもしろかった。

柱のきずは5月5日だけじゃたりない

日々の変化を見たくなる

 

生まれ順が一番で背が高ければボス的存在になる。加えて成績が良ければオール一番、委員長も揺るぎない。

そういう時代・社会だった

 

☆の番号は17番

この先一時19番はあったけど中学卒業までほぼ17番 学年が変わりメンバーが替わってもなぜか☆は50人クラスの17番だった

男女別番号で男女はほぼ同数 うまくいってた時代

17番は真ん中より後ろより

 

いつしか17番は自分の番号

割り算ではあまり「1」の位置

固有の17番

一番よりすてきな17番

一時期もらった19番も孤独の番号、

我一人 染まらない番号だ

などと思い入れは大きく膨らむ

17も19も素数と知ってからは素数が大好きになり延々と素数を探し求める☆。

パソコンなんてない時代、ひたすらこだわりと努力で懲りまくる

父が間違いをただしてくれると満面の笑みで喜ぶ

平均律を追い求める人を「そんなの求めてなんになる」などとバカにできない話であるが自分のことは棚に上げるものである

・・・平均律なんて終わりがないじゃん・・・

・・・素数だって終わりがないだろうが・・・

一人でけなし合う

 

唐突に並び順のことを思い出して口ずさむ

 

柱のきずはおととしの

5月5日のせいくらべ

ちまき喰べ喰べ兄さんが

はかってくれたせいのたけ

昨日くらべりゃなんのこと

やっと羽織のひものたけ

 

紐の丈、の意味がわからなかったなぁ

魚の干物?竹? わからなくても歌えるもん

着物着なかったし・・・

 

「背比べ」 柱に傷つけると叱られる、と教科書から消えた曲だ

当時は思いっきり柱に傷つけていたよね

おおらかという点でいい地代だったな

 

小学校の入学式

黄色文字は読まなくて良いです

 

小学校の入学式に、とセーラー襟の水色ワンピースを買ってくれた

大変気に入ってルンルンな☆

 

入学式の朝は騒がしかった

いつまでたっても出かけない

とっくに始まっている時間でもまだ出かけない

玄関は人が出入りして近づけない

 

大きな部屋には白い布をかけた台がおかれて見に行くと邪魔だと叱られる

一人ぽつんと立って待つ

 

やっと学校につれてってもらったら講堂は長―いゴザがいくつも敷いてあってたくさんの一が正座していた。

講堂の後ろの方は大人がぎっしり立っている

前の方で誰かがお話をしている。

誰かに連れられて正座の仲間入りをした。

 

ふと 教会を思い出す。

☆は迷子じゃない。

黙って座る。

 

お話が終わると前の方で誰か(上級生)が歌を歌ったりしてたような・・・

全部終わると立って教室に移動した。

 

上履きを探した記憶がない

並び順に困った記憶もない

ついて行けなくて戸惑った記憶もない

☆はちっとも困らないで教室へ行った

 

家に帰ると家は人であふれていた

 

大きな部屋の白いシーツの周りはお花がたくさんあってきれいだ

除くだけで叱られて追い出された

 

☆は近づきたい

大人は追い出す

☆は我慢強い

誰もいない隙を狙って

お花に見入る

棺があるなんて知らないし関係無い☆はお花が見たい

外には棒の先にお花の輪がついたのが並んでいる 

近寄ると叱られる

みたい

こっちはかなわないうちになくなった

 

大勢の人が出入りして 三日間で白いシーツはなくなった

 

 

入学式から帰った☆に姉が食べるように、と白くて平べったい楕円に茶色で何かが描いてあるものをくれた

中があんこで飛びついた

三日も食べれば飽きる

堅くなる 

葬式まんじゅうは☆のお葬式にはいらない

 

後で知った事だが

入学式の日の早朝この家の祖母(両親の親ではない、麦こがしの祖母)がなくなったのだそうだ

この祖母は☆に意地悪なのだ

昔だから葬式は当然家で行う

我が家はその昔お殿様の弟が開いた家、とかで学識がそれなりに高いらしい

家を仕切ろうとするものたちに囲まれて母は大変だったろうと 今なら思う 

 

何しろなくなったのが☆の入学式当日の朝5時

入学式を休むかどうかで少々もめたらしい 母が出席させたいとがんばったのだそうだ。

母は思い出してぼやいていた 

☆にはいろいろ手がかかった、と

大人になった☆はぼやく

☆のせいじゃないし

思い出が多くて話題に困らないじゃないか!! 

コノヤロウ

 

入学式から帰ってから3日間はすべて学校も家も姉と過ごした

姉は3才年上だ

3才しか年上でない

 

三日後母に会った

☆が三日もあってなかった、と言うと

母は驚いたように 毎日会ってたじゃない と言う

 

母は☆を見ていたけど☆には母は見えなかった と言うことだろう

 

☆の人生は小説みたいに波乱万丈なのだ

 

 

 

 

伊勢湾台風と長靴

岩手県は台風の被害が比較的少ない

まして子供=☆=は危機感がない

 

伊勢湾台風の被害は記憶に生々しい

テレビもないので全国の被害状況など全くわからない

わからない、というのは実感が湧かない ということだ

 

小学校1年のとき伊勢湾台風がやってきた

家の土地は 表の道路からわずかに低い

我が家の裏にはさらに一段低く田んぼがある

一段と言っても水を張るために低い程度だ

 

朝起きてみると家の周りが湖になっていた

道路はあるけれども 家は水の中に浮かんでいる

表は浅くて長靴で走路まで行ける

大喜びで 探検に出た

 

道路を歩って行くと 途中から水没している

通常の雨で水溜りになるところに進んだらしく

ドボッと一気に長靴は水でいっぱいになってしまった

どうせ・・ と そのままそろそろ歩きで前進すると

水面はは膝を越えてしまった。 

 

探検を一旦中止して家に帰り着替えて

午後は 父の長靴を持ち出して裏に行った。

裏は田んぼの向こうの土手まで一面水

こんなに大きな水溜りは見たことがない

 

残飯のみかんの皮が浮いている

よく見るといろんなゴミがぷかぷか浮いていた

急に水が汚いことに気がついたものの

そこはそこ ☆の目標は 探検だ

田んぼとの境のバラの垣根までは行きたい

田んぼに向かってだんだん深くなる

地面が田んぼに向かってわずかに傾いていることがよくわかる

 

トイレも水没した家が多い

そのことを言ってくれれば やることもちがったろうに

結局自分の長靴だけでなく 家の長靴3足を

水没させ 叱られた

 

ドライヤーなどない時代だから

きれいな水で 水洗いをし

新聞紙を詰めて乾かした 

 

 

 

2年後、室戸第2台風に見舞われた

 

☆は記憶力はいいのだ 

誰かの長靴が乾くまでのなが~いお説教はごめんなのである

自分の長靴だけきれいに洗って干す

医大 理不尽と生きる知恵 1=はじめに

盲目の少女は温泉街でマッサージをしながら身体を売る

人相学でも 目が曲がった女は娼婦 だという

闇の常識みたいに現代もなお人の心の底に流れ続けている

 

誰が言い出したか知らないけれど全く迷惑な話だ

斜視という状態を持っただけで、人格をさげすまれる被害にあう

若いとき街を歩くとキャバレーのホステスになれ、と誘われた

見てもいないのに「にらむな」と知らない人に怒られる

目に見えない障害も十分やっかいなものだが

目に見える障害もやっかいである

その上に 白内障はもはや病気ではない、とされ

障害者でありたいために治そうとしない とまで言われる

身体の障害は心も食らう

私、☆、は 闇と光と中間と 日々さまよいながら生きてきた

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

親はどんなに悔やんでも

産まれてしまった子供は育てなくてはならない

クリスチャンの家庭に育った父は

障害者と接する心得も学んでいた

しかし、正直 身内は別だ

決して口に出さず、面と向かっては態度にも出さず

でも、どうしても受け入れたくない

そんな親の気持ちはしっかり当人につたわるのことだって

きっと承知の上でも どうにもならないのだろう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今の私は思う

障害を持って生まれてしまったら

親の人生において

自分が「いらない存在」であることを

知り 受け止め

たとえ我慢やあきらめが見え見えで育ててくれていても

同時に存在する 優しさや希望が

「人」として 生きてほしいと「願う心」を感じ取り

生きる糧 と受け入れ

自身も「人」であるために頑張る

いつか本当の理解を得

喜びと共に「私の子だ」 と言ってもらえるように頑張る

それが 先天性身体障害 の本質だと

 

だから、世話してもらうのが当たり前だ、

と言う人間を見るとむかっとするわけだが それは別の話だ

 

障害物競走は 身体に障害を持たない人が

わざわざ目で見えるような障害を設置し

人より先に克服することを目指して「走る」

それを 遊びの一つで として楽しむ

私は 毎日生きることが障害物競走だった

私にとっての障害物は 「周りの人すべて」である

「人」「人間」といいランクに並ぶように

「人間として認めてもらえるラインが引かれたゴール」 へ

ひたすら走る

成長と共に その感覚は植物が育つように成長し

社会が広がれば広がるほど その必要性を実感

前へ進むほど風あたりは強く 障害物は高くそびえ立つ

同時に ほんとうの優しさからの励ましも知った

「問題事」さえ無ければ 「気にならない存在」という隙間も意識した

闇に染まるか

光を求めるか

生きるか

終わりにするか

分かれ道は数歩ごとに現れる

「人」の何倍も頑張って成果が上がると

「人」は成果を元の基準としてしか見ない

「普通に歩ける」=見える

本が読めるから=見える

日々「人」と同じラインに立つため

どれほどの物事をあきらめて生きているか

そんなことは 「判断基準のマニュアル」に存在しない

健常者が「できない」のは「しかたがない」なのでも

私ができないと「できないふりをしてずるい」と白い目で見る

損以外の何もない

これを不公平という

 

やっぱり 生まれてくるべきでなかった

そう 思うこともたびたびある

その都度

真剣に向き合ってくれた「昔の人」を思い出し

ひたすらに頑張った頃に 心を戻して

また 今日も 生きてゆく、

居直るのである

負けてたまるか

 

この医大のシリーズは

まだまだ つらい世の中に気がつく前で

実にのびのびとしている

私にとって この時期の記憶は大事な財産で

今でも 生きるための栄養剤になっている