福島県泉村 昔話の景色

福島県泉村 昔話の景色

 

福島県泉村へは常磐線でいく
東北線の仙台から海のほうにぐ~~っと折れていく
鎌倉生まれの母から見ればド田舎のようだ

そこに父の実家がある

 

小学校1年の夏休みは父の実家で過ごした

〈父は、父の母方の跡取りである〉

父方の総会のような行事が祖父の家で行われた

親兄弟の親睦会なのだろう
地理的都合&交通事情などもあっで

到着して用事がすんだらすぐ帰ると言うわけに行かない一週間くらい父の兄弟およびその家族数十人が滞在した

 

初体験満載の夏休み

☆の子守約の姉は泉駅から家までの道を
「正規の通路」「近道」「景色のいい遠回り」
と幾通りか教えてくれた
ある限りの道をしっかり教えておけばほおっておける
「突き当たったらどっちへ曲がる」
とか、何本目・橋のところから のように教わる
駅から左に離れなければ家は見つかる
基本的に私は上を見ない

ひたすら足下を見て歩く 

視力があろうがなかろうがそれで家に帰れる

迷子になったらその辺の家で聞いて駅に行けばよい

泉駅までの道を覚えると出歩くようになった。
姉の信頼が強いのと田舎では迷子の心配もないのだろう
ほっとかれたのがには幸いした。

家を出たらいったん駅まで行く
最初からあっちこっち歩いたら帰れなくなる
駅を出てまっすぐ進むと右手に中学校がある
泉中学校 父たちの母校らしい
そこを右に曲がって進むと川があった。
川の向こうには緑が広がっている

じっと見ていると緑は山のようだ

姉と一緒の時に「あそこにに釣をしている人がいる」

と教わった

人がいると教えられて人を探す。
流れの真中にも人らしいものがいるのをみつける


どうやってたっているのだろう
水の上にたっているようにしか見えない 

釣りを知らないからじっと動かないのが不思議でならない
待てど暮らせど動く様子がない
釣り竿が見えないから ただただ居る〈ある〉だけだ

 

「朝早く川に行くとすごくきれいだよ」
見つかると叱られるから そっと抜け出すんだよ
教えてくれたのは当然姉だ
食事の時間には戻ってないと叱られるよ
と注意事項もくっつく

さっそく次の日実行だ
祖父はとてつもなく早起きで抜け出すころには起きていた
見つからないようにそっと出て川へ向かう

川は静かだった
駅から川に来たときの位置から左はじきに曲がって何もない
橋がひとつあったけど 限定で通行止めなので景色の一部
右は明るく川はくねくねどこまでも続いている
早朝だからかもやに包まれてすべてがボーっとかすむ
ぼやけた灰色の世界
暗いわけではない 
足元がぼやけるほどではなく
川から向こう岸がもやに包まれている
山はかすんで輪郭がぼやけ空との境がはっきりしない
釣り人は動かずすべてが絵だった
大きな絵本の中に自分を置いて山の空気を吸う

何を思うでもなく ただぼやけた世界を眺めるだけ
それがすばらしくいい時間だ

飽きてくると家に帰る
そのころになると大人は朝食の支度で忙しく働いていた。
小さくなって家に入り、今起きた顔で挨拶する
・・そうか!このころからこんなこと覚えてたんだ・・
すっかり早朝の散歩がが気に入って滞在中の日課になった

今でも昔話の山村の絵はこの景色が土台になる
やっぱり本物は焼きつき方が違う 
動かない景色でも生きている、と感じるから

医大 理不尽と生きる知恵 1=はじめに

盲目の少女は温泉街でマッサージをしながら身体を売る

人相学でも 目が曲がった女は娼婦 だという

闇の常識みたいに現代もなお人の心の底に流れ続けている

 

誰が言い出したか知らないけれど全く迷惑な話だ

斜視という状態を持っただけで、人格をさげすまれる被害にあう

若いとき街を歩くとキャバレーのホステスになれ、と誘われた

見てもいないのに「にらむな」と知らない人に怒られる

目に見えない障害も十分やっかいなものだが

目に見える障害もやっかいである

その上に 白内障はもはや病気ではない、とされ

障害者でありたいために治そうとしない とまで言われる

身体の障害は心も食らう

私、☆、は 闇と光と中間と 日々さまよいながら生きてきた

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親はどんなに悔やんでも

産まれてしまった子供は育てなくてはならない

クリスチャンの家庭に育った父は

障害者と接する心得も学んでいた

しかし、正直 身内は別だ

決して口に出さず、面と向かっては態度にも出さず

でも、どうしても受け入れたくない

そんな親の気持ちはしっかり当人につたわるのことだって

きっと承知の上でも どうにもならないのだろう

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今の私は思う

障害を持って生まれてしまったら

親の人生において

自分が「いらない存在」であることを

知り 受け止め

たとえ我慢やあきらめが見え見えで育ててくれていても

同時に存在する 優しさや希望が

「人」として 生きてほしいと「願う心」を感じ取り

生きる糧 と受け入れ

自身も「人」であるために頑張る

いつか本当の理解を得

喜びと共に「私の子だ」 と言ってもらえるように頑張る

それが 先天性身体障害 の本質だと

 

だから、世話してもらうのが当たり前だ、

と言う人間を見るとむかっとするわけだが それは別の話だ

 

障害物競走は 身体に障害を持たない人が

わざわざ目で見えるような障害を設置し

人より先に克服することを目指して「走る」

それを 遊びの一つで として楽しむ

私は 毎日生きることが障害物競走だった

私にとっての障害物は 「周りの人すべて」である

「人」「人間」といいランクに並ぶように

「人間として認めてもらえるラインが引かれたゴール」 へ

ひたすら走る

成長と共に その感覚は植物が育つように成長し

社会が広がれば広がるほど その必要性を実感

前へ進むほど風あたりは強く 障害物は高くそびえ立つ

同時に ほんとうの優しさからの励ましも知った

「問題事」さえ無ければ 「気にならない存在」という隙間も意識した

闇に染まるか

光を求めるか

生きるか

終わりにするか

分かれ道は数歩ごとに現れる

「人」の何倍も頑張って成果が上がると

「人」は成果を元の基準としてしか見ない

「普通に歩ける」=見える

本が読めるから=見える

日々「人」と同じラインに立つため

どれほどの物事をあきらめて生きているか

そんなことは 「判断基準のマニュアル」に存在しない

健常者が「できない」のは「しかたがない」なのでも

私ができないと「できないふりをしてずるい」と白い目で見る

損以外の何もない

これを不公平という

 

やっぱり 生まれてくるべきでなかった

そう 思うこともたびたびある

その都度

真剣に向き合ってくれた「昔の人」を思い出し

ひたすらに頑張った頃に 心を戻して

また 今日も 生きてゆく、

居直るのである

負けてたまるか

 

この医大のシリーズは

まだまだ つらい世の中に気がつく前で

実にのびのびとしている

私にとって この時期の記憶は大事な財産で

今でも 生きるための栄養剤になっている