さこちゃんは嫌い

幼少の頃、我が家に住み込みのお手伝いさんがいた

サコちゃんと呼ばれていた

 

その「サコちゃん

時々 通りがかりに私をつねった

夜中に いきなりつねられたことも数回ある

寝込みを襲われいきなり泣き出し 訴えても

本人は「していません」というと大人はそっちを信用する

「子供」ではない ☆という「イキモノ」を信用してもらえない

 

つねられるのは☆だけで

夢だろう、とか 被害妄想だとか言われた

 

「姉はもう、大きいからやられないのだ」と思っていたが

きっと そうではなかったのだろう

 

 

 

 

人は妥協値を超えると鬱憤晴らしをしたくなる

憎むに値する存在で弱いものが近くにいれば迷うことなく的にする

自分の立場が優位に利用できて

正当性を主張して当たり前に通る存在

それが☆だった

ただそれだけかも知れない

 

だとしても

鬱憤晴らしの的にされた方は鬱憤ぷんである

 

 

雪合戦と火お越し

☆の家の裏には広い田んぼがあった

こんな所になぜ田んぼ、と言う程市内のど真ん中,住宅一等地だ

 

戦後のベビーブームで子供があふれ、収容しきれなくなった生徒を分散するために新しい小学校ができ学区が分かれた境目に田んぼがあった。

つまり田んぼの向こう、我が家の裏は学校が違う

高学年は昨日まで同じ学校の生徒だったから顔見知りである

 

冬が来て田んぼは真っ白に染まり子供の遊び場になると休日は雪合戦が行われる

 

近所の小学生全員かと思うほど集まってそれはもう盛大な雪合戦だ

 

広い田んぼに雪はいくらでもあり

どこにも誰にも迷惑がかからない

 

☆は楽しくてしょうがない

 

敵味方は学校で分かれる

実にシンプルで昨日の友は今日の敵なのである

高学年が前に出てずらーっと並んでバリケードを張りながら攻撃する

低学年は後ろの安全地帯でせっせと雪玉作りに精を出す

向こうの学校の生徒が隙間を狙って無防備に雪玉作りに夢中な☆たちを狙って雪玉を飛ばす

堅くて痛い

☆は負けじと堅い雪玉を作るのに専念する

☆は凝り性だ

どうすれば堅くなるか、

どうすればまん丸になるか

どうすればお兄さんたちが喜ぶか

 

もしかしたら 同じ低学年も雪合戦に参加していたのかも知れない

☆は周りが見えないから雪玉作りを命ぜられ黙々と雪玉を作り決められた場所におく

☆の作った雪玉はすぐに使ってくれるから☆はせっせと よそ見もせずに 雪玉を作る

 

言われたことをタダひたすら繰り返す

その姿は「知能指数の低い子供」の行動であり 他者に「バカ」と言う認定をされてゆく。

☆の知ったことではない

☆は清らかにバカなのだ

盲のバカには上級生はとても優しいのだ

 

☆は雪玉を作るのがうまくなった

研究にいそしみ遅いからあまり役には立たなかったと思うが・・・

 

時間が来るとさっと終わる

勝ち負けはない、たぶん

 

当時のこたつには棚つきで 洗濯物が干せるようになっていた

雪で固まったマフラーを取ってこたつの中に入れる

 

 

☆!!

???

雪を取ってからこたつに入れなさい

火が消えてしまう

こたつの布団を上げるとほわほわと湯気が出ている

 

うん、すてきだ

 

雪は溶けると水になる

水は上空にとどまっていない

☆は少し勉強した

だって・・マフラーに凍り付いた雪なんて☆にはとれない

仕方がないじゃないか

☆は密かに反省しない

 

 

☆は火お越しを教わった

コレがまた楽しいのだ

筒を持ってフーフー

吹くたびに炭が赤く光る

ちっとも制裁になってない

 

大人はいいように☆を使い

☆は楽しく懲りまくって大人の意図などつゆほども知らない

 

☆は体験学習が大好きで平和である

福島県泉村 昔話の景色

福島県泉村 昔話の景色

 

福島県泉村へは常磐線でいく
東北線の仙台から海のほうにぐ~~っと折れていく
鎌倉生まれの母から見ればド田舎のようだ

小学校1年の夏休みは父の実家で過ごした

〈父は、父の母方の跡取りである〉

父方の総会のような行事が祖父の家で行われた

親兄弟の親睦会なのだろう
地理的都合&交通事情などもあっで

到着して用事がすんだらすぐ帰ると言うわけに行かない一週間くらい父の兄弟およびその家族数十人が滞在した

 

初体験満載の夏休み

☆の子守約の姉は泉駅から家までの道を
「正規の通路」「近道」「景色のいい遠回り」
と幾通りか教えてくれた
ある限りの道をしっかり教えておけばほおっておける
「突き当たったらどっちへ曲がる」
とか、何本目・橋のところから のように教わる
駅から左に離れなければ家は見つかる
基本的に私は上を見ない

ひたすら足下を見て歩く 

視力があろうがなかろうがそれで家に帰れる

迷子になったらその辺の家で聞いて駅に行けばよい

泉駅までの道を覚えると出歩くようになった。
姉の信頼が強いのと田舎では迷子の心配もないのだろう
ほっとかれたのがには幸いした。

家を出たらいったん駅まで行く
最初からあっちこっち歩いたら帰れなくなる
駅を出てまっすぐ進むと右手に中学校がある
泉中学校 父たちの母校らしい
そこを右に曲がって進むと川があった。
川の向こうには見えないのか そうに違いない
緑が広がっている

じっと見ていると緑は山のようだ

釣りをしている人がいると教えられてから
人を探すようになった。
流れの真中にも人がいる
どうやってたっているのだろう
川にたっているようにしか見えない
釣りを知らないからじっと動かないのが不思議でならない
待てど暮らせど動く様子がない
釣り竿が見えないから ただただ居るだけだ

 

「朝早く川に行くとすごくきれいだよ」
見つかると叱られるから そっと抜け出すんだよ
教えてくれたのは当然姉だ
食事の時間には戻ってないと叱られるよ
と注意事項もくっつく

さっそく次の日実行だ
祖父はとてつもなく早起きで抜け出すころには起きていた
見つからないようにそっと出て川へ向かう

川は静かだった
駅から川に来たときの位置から左はじきに曲がって何もない
橋がひとつあったけど 限定で通行止めなので景色の一部
右は明るく川はくねくねどこまでも続いている
早朝だからかもやに包まれてすべてがボーっとかすむ
ぼやけた灰色の世界
暗いわけではない 
足元がぼやけるほどではなく
川から向こう岸がもやに包まれている
山はかすんで輪郭がぼやけ空との境がはっきりしない
釣り人は動かずすべてが絵だった
大きな絵本の中に自分を置いて山の空気を吸う

何を思うでもなく ただぼやけた世界を眺めるだけ
それがすばらしくいい時間だ

飽きてくると家に帰る
そのころになると大人は朝食の支度で忙しく働いていた。
小さくなって家に入り、今起きた顔で挨拶する
・・そうか!このころからこんなこと覚えてたんだ・・
すっかり早朝の散歩がが気に入って滞在中の日課になった

今でも昔話の山村の絵はこの景色が土台になる
やっぱり本物は焼きつき方が違う 
動かない景色でも生きている、と感じるから

体育の水泳は川で

小学校にプールはない

何処の小学校にもプールはない

夏の水泳教室は二時間続きで川へ行く

 

雫石川は北上川に合流するまで水が飲めるほどきれいな川だった、むかし。

学校から歩いて10分の所に雫石川の終点がある

雫石川・北上川・中津川が合流し北上川となって宮城県の海までながれていく

雫石川の終点は採石場になるまで川底は滑らかな小石でなだらかだった

学区内で学校からも近く景色も良く プールよりずっと気持ちよかった

 

水泳の準備は教室で荷物の確認

身体を拭くタオルと換えのパンツ

 

ズボンじゃないよ

下着のパンツ 女児はズロースというか、快適工房のゆったりでしっかり木綿のババパンツ

ショーツ成る横文字品が存在しなかった時代だからね、

下着のパンツとズボンのパンツではアクセントが違うとか?発音したのを聞いたことないから文字上一緒で不便きわまりない、

日本語がいい

ブラ・・ 日本語知らない

 

タオルも良くてバスタオル、なければ普通のタオルでOK

 

話を戻そう

 

パンツとタオルと浮き輪を手提げに入れて一クラス50人、学年ごとだったりするから250人 テクテク10分で川に着く。

服を脱いで朝からはいているパンツ姿で注意事項を(たぶん)たくさん聞く

準備体操をしてやっと川で遊ぶ。

先生の合図で川から出て服を着て学校へ帰る。

???ええと

パンツはいつ履き替えたんだろう

とんと記憶がない

ただの河原で250人も着替えるんだからね

壮観?

上級生はどうしたんだろうね

 

 

二年生になって

雫石川は水がきれいで石もきれい。

採石場になって危険だから遊泳禁止。

だから、勝手に行って川で泳がないように、と釘を刺された。

小学校にプールができて川の水泳は一年だけだった。

 

友達と=堂々=川で水遊びをした。

父に歌を教わる

父が東京で教師をしているときに合唱コンクールの指導もしたそうだ

戦後なので専任教師がいなかっただろうが

クリスチャンの家庭に育った父はオルガンで賛美歌を弾けるのだ

母もバイエルは卒業してるんだよね

教師ってマルチだね

ただ、残念なことに家にはオルガンがなかった

 

☆は歌うのが好きだ

聞き覚えの歌をピーチクパーチクやってるのを見て父は歌を教えてくれた

 

故郷

 

うさぎ追いし かの山

 

歌い出しが うさぎ である

父は丁寧に教えてくれた

3番まで全部覚えても うさぎ が出てくるのは最初だけ

それでも良く歌った

 

故郷は父の故郷を歌ったみたいな歌だ

うさぎ から始まるから喜んで歌うだろうと選ばれたのかも知れない

 

 

ウサギは追われ狩られるる身

当たり前の 食料 である

 

ちなみに おいしいらしい

 

 

 

待ちぼうけ

 

父は歌を教える前にお話をしてくれた

うさぎが木の根にぶつかって死ぬと子など身振りを添えて。

☆は単純大喜びで聞き入る

 

そして歌を教える

快活なリズムに乗って物語が紡がれていく

間奏も歌の一部、と言うより間奏がとくに好きだった

 

働き者の農夫が 勝手に飛び込んで切り株に当たって勝手に死んで棚ぼたのウサギを食べてよほどうれしかったのだろう

待てばウサギが食べてもらいにやってくる、と 怠けて落ちぶれる歌。

 

ウサギは来るかも知れないけれど畑を耕してはくれないよね

 

☆が学ぶべきことは

前も見ずに勢いよく突っ込んで自滅するウサギのほう

前を向いて よく見て 歩きましょう

そうすれば 農夫は怠け者にならなかった

 

悪いのは勝手に餌になった うさぎ である

 

父は何を教えるか!

☆はなんの怪訝もなく覚える

 

 

 

兎のダンス

 

ソソラ ソラソラ うさぎのダンス

タラッタ ラッタラッタ ・・・・

調子良いんだよなぁ

脚でけりけり ピョコピョコ 踊る

耳にはちまき ラッタラッタ・・

 

耳にリボンなら可愛いけどはちまき

踊りと言ったら盆踊りなんだ 時代を感じる

なんて思うのは大人になってから

 

 

あわて床屋

 

時間がない、と焦る兎が カニのとこやに耳を切られる話

絵本では兎の片耳はなくなっている

残酷物語だ

 

☆は学ぶ

落ちつかない兎が悪い

カニは被害者だ

 

目が悪い☆は車にひかれても文句は言えないのである

 

父はスキップも教えてくれた

 

タラッタ ラッタラッタ

ピョコピョコおどる

兎が跳んででて

ころり転げた木の根っこ

チョッキン チョッキン チョッキンな

 

☆は近所中スキップでサイレンのごとく歌いながら踊り回る

 

 

どこかのおばさんが

歌上手だね、と褒めてくれた

☆はますます元気

 

 

父はたくさんの童謡唱歌を教えてくれた

意図するところは☆の知ったことではない

毎日近所中に美声を聞かせた

 

 

 

聖女を育てよう いなばのしろうさぎ

いなばのしろうさぎ

 

物語が教えたいことは何?

 

絵本を開くと川の前に白いウサギが立っていた

この絵本には神様の話は書かれていない

向こう岸に行きたいウサギがワニをだまして橋を作り渡っていくが あと少しというところで得意になってだましたことを言ってしまう

そして怒ったワニに全身の毛をむしられる=皮を剥かれる=

通りがかった神様に海につかり乾かすように言われて=傷口塩=ひどくなる

素声大黒様が現れて真水で洗いがまの葉の上で休むように教わり回復する

 

 

初めて読んでもらったときとっさに言ってしまった

 

渡ってから言えばいいのに

 

☆は5才くらい

 

父は☆の意見に答えただろうか

記憶がない

 

神様を信じる心なぞ育つわけもない

 

大人になってテレビで知った

ワニって陸を走るの速い

 

物語のワニは実はサメだった

渡る前に食べられるだろうに

 

☆は清く正しくとは育ちそうもない

聖女を育てよう かちかち山

父は☆が食いつくウサギを餌に本を読む

 

 

かちかち山

 

 

かちかち山は父と掛け合いで楽しんだ

全部暗記でラジオ劇場である

 

悪いことをしたら徹底的に罰を受ける

ウサギは死刑執行役 灰色っぽいピンクのウサギだったと思う

罪人には何をしても良く 残酷であればなお良く

執行役は賞賛されるのである

実はウサギにあまり記憶がない

なぜなら☆はタヌキ役だった

 

ボウボウ

アッチッチッチ

イタイ イタイ

アップップ

ごめんなさい

死ぬ

 

最後はウサギが腰に手を当て偉そうに笑っておじいさんに報告に行く

めでたしめでたし

 

父は笑い☆は死ぬ

 

 

聖女を育てよう ウサギとカメ

幼稚園に入る前から父はよく本を読んでくれた

国語教師である父の音読は絶品である

 

 

ウサギとカメ

 

絵本に見開きいっぱいに 真っ白くて大きな赤い目のウサギが描かれ 草の中に小さくもないカメがいた

 

うさぎは足が速いのが自慢だった

 

得意な力は見せびらかしたくなるのは当然である

足がとびきり速くないと命を刈られるなどとは絵本には載っていないが本来たいへん重要なことだ

 

にも関わらず

おごったウサギは努力のカメに負ける

努力は天才より尊い などと教え込む

なわけあるか、と知るのは何十年も後になるのだが、

 

☆はすなおに努力すれば何事もなせる、と刷り込まれる

星はうさぎなのにカメになれと言われる

☆はうさぎどしだから・・と良いようなことを言って持ち上げてカメの方が優秀だと諭す

 

いまなら 父親のすることか、といえるのだが・・・

 

父は正しいのだ

イヤミなど☆の理解外である

父の教えは

カメ=他人=はすばらしい努力家でウサギ=☆=は愚かな天狗である

☆は素直な生徒であった

どうしようもなく悲しくなる

 

兄弟はその決まりの外にいて 家の中では勝つために精を出した

父は優秀である

兄弟で発散できるように あるいは 自分の目の届くところでガス抜きするように環境を整えた

 

絵本では狐が公平な者として 審判をする

☆は狐をすばらしい動物だと思い込む

公平を装うキツネはしたたかである

父はキツネが好きなのであろうか

父 ☆は愚痴るのである

☆の視点で父の話を少ししよう 1

 

20代半ばで結核を煩い教職に復帰できなかった父は 同じく教師の母に教えを請いに家に来る生徒にこたつで教えることになり やがて私塾を始めた

 

やると決めたら徹底する父である

東京の兄の家に泊まり込んで「私塾」なるものを視察&勉強した。

盛岡では手に入らない教材や参考書など資料を仕入れてこの地初の高校受験の進学塾を開いた

 

塾の教材はガリ切りの謄写版

☆は教材作りを見るのが好きだった

 

最初のこたつ生徒は昭和25年と言うから26年の大晦日生まれの☆は仕事としての塾の歴史と共にある

☆がこの家の性を失った少し後に塾も終わった

 

 

☆の視点で父の話を少ししよう 2

 

高校の数が少なく高校受験は「上に行く」という心構えから真剣に取り組まないと夢に終わる 必然的に生徒はまじめに勉強する

 

父は生徒を分け隔てなく育てる良い教師だ それは間違いない

 

 

普通に人だし我が家は進学塾だ

劣等生より優等生の方が伸びて面倒見もあるしたのしい

 

優秀な生徒は優秀な友達を連れてくる

やりがい、職業に喜び なんてモノも連れてくる

 

昼間は中学浪人、夜は現役中学生、

学生が我が家に通った

 

中学浪人のクラスは遠足もあった

我が家は盛岡駅に遠くない位置にある

ある年「小岩井農場」まで「えんそく」を実行した

 

遠い 18キロもある

 

 

朝6時に出発し、小岩井農場に着いたのがお昼で、休んだ後小岩井駅まで1時間近く歩いて汽車で帰った

 

自家用車がもちろん電話もほとんどない。信じるのは自分の足のみ

 

思い出話も何度もすることになるわけだ。

 

翌年から種畜牧場(現岩手牧場)になった 種畜牧場だって徒歩で2時間かかる

☆は調律師の時バスがなくて何度も歩いているからわかるのだ 遠い8キロくらい、最短が二車線の国道4号線で歩道が一人やっとの狭さ。一桁国道なのに難所で歩くのに適さない。

裏道はもっと遠い。父はどんなルートを使ったか聞いておけば良かった、と思う、「えんそく」の距離を知るために。

 

「えんそく」=「遠足」とおく歩く のであってバスで「遠足」はおかしい

 

 

ピクニック=自然豊かな所に出かけて食事を取る 気分を変えての食事はおいしい 食事を取らねばピクニックにあらず 車移動もOKだそうだ。

ハイキング=テクテク歩く 食事はどうでも良い 歩くことが大事で山でなくても良い

デイキャンプ=弁当持参ではなく食材をかついで行って外で調理する

 

遠足はお弁当持参のハイキング ということになる、たぶん

 

 

☆の視点で父の話を少ししよう 3

 

塾には非常に成績の悪い生徒もいた

父はそういう生徒にも好かれる

 

父は言う 性格の素直な生徒は成績など関係無くカワイイ

素直な生徒は伸びる

 

生徒Aは代々農家で中卒で農家を次ぐのが当たり前だった

それが中学校に入ったら高校に行きたいと言い始めた

学問など無縁でいいと思っていたから成績は下の下

父は生徒Aの素直さと熱心さと明るさに惹かれて手をかけた

最初から農業高校希望だったので余裕で合格したらしい

☆はこの生徒Aを覚えている

小学生だった☆にいつも とびっきりの笑顔で話しかけてくれた

 

☆は人の顔は区別が難しい

背の高さとか 声や肌の色 そんなので区別しているから顔を覚えない

何百人通り過ぎていった生徒たちの中でたった一人の笑顔を覚えている

 

ちなみに、☆は道路ですれ違った父に気がつくことはない。

必要があったり気分が良いと

「☆、お父さんだよ」と声がけしてくれる

成人してからも変わらない

 

で、父は必要がなければ声をかけない

なのに あとから☆の行動に苦言を呈する

☆は圧倒的不利に唇をかむ

父への文句は地雷である

 

 

☆の視点で父の話を少ししよう 4

 

父は身長174センチ、大正生まれでは珍しいくらいに背が高い

背が高い、と言うことは既製品のズボン(当時はスラックスとは言わない)がない、Yシャツの手も短い で オーダーになるが普段着オーダーでは金銭的にやってられない

家庭科の教師の母が紳士服を手作りする羽目になる

 

母はいう まえたてなんて面倒なことしてられない 男物のズボンの前開きなんて細かい生地を何枚も使ってメンドウったらありゃしない

☆には全くわからないが熱心に聞く

 

母はニヤッと笑って だから女物の作り方で男物に見えるように工夫するのサ

自慢である、が こういう工夫話は逃さず聞くに限る 絶対役に立つ

父は母の手作りは柔らかくとても着やすいという

二人とも満足、平和である

 

 

☆の視点で父の話を少ししよう 4

 

結核治癒後の父は時間があれば寝ていた

☆はそれが普通だと認識していた

でも 思い出すと母の居眠りなど見たことがない

 

 

 

の視点で父の話を少ししよう 5

 

父には固定観念があった

盲目はバカである

 

☆は父の生徒の枠から外された

教える価値のないものとして

 

バカは人のために役に立つことで存在を許される

 

盲目は我が家に存在するだけで父に取って害である

 

父は優秀な教師である

 

☆というなまえ

☆はだめな人間である

☆はうさぎがすきである

 

父は☆の魂に刻んだ とおもわれる

 

☆は気がつけば「うさぎ」が好きだった

父の「ダメ」は絶対だ

父の「だめな人間」に絶対にあらがうことはない

 

 

うさぎはニンジンや緑の草がすきだ

ウサギは耳が長くてふわふわで赤い目をしている

ウサギはぴよんぴよん飛んで走る

 

いいことばかりだと思い込んでいた

 

父が ☆はうさぎ年だからニンジンが好きだ と言えば

☆は うさぎ年だからニンジン好きなの とはしゃいで食べた 暇な幼稚園生活の頃の話である

 

草の中に隠れるのも好きだった

 

 

 

☆の視点で父の話をしよう  6

 

盲学校は家から徒歩15分から20分でいけるので徒歩通学の距離にある。

 

父は☆を盲学校に入れるのに猛反対した。

理由は 簡単明瞭 かっこわるい だ

 

 

母は悩んで数回盲学校見学にいった

当時の盲学校は全盲が多く、☆のように少しでも見えれば全盲生の補佐に回る、それが悪いとは思わないけれど、☆には自由にのびのびと生きてほしいと願い普通学校に入れたいと思った、そうだ。

 

☆は学区の小学校に入ることになった

 

両親は教師である

盲学校が悪いとは全く思っていない

 

 

父は「我が家から盲学校へかよう子供を他の人に見せたくない」

娘が盲学校へ通っているとは言いたくない

純粋にそれだけだ

我が家は内も外も立派でなくてはならないのだ

 

昔はそういう考えの人がたくさんいた

立派な人間でありたい父に取って☆は悩みしかもたらさない存在であった

 

障害児を導く担任

席順 1

 

学校は最初出席順に席を決めている。

出席順とは生まれ順。

4月二日生まれがいれば未来永劫一番で4月一日生まれは最後になる。

子供だから一年の成長は目に見えていて後ろに行くほど小柄になる傾向があるが椅子なので問題ない。

しかし、立って並んだばあい頭がでこぼこに並ぶのは美しくない

そこで 全校朝礼などでは小さい順にならぶ それはかなり厳格で毎週の全校朝礼の時に担任が確認し入れ替える。

いつもちっちゃいのは一番前で背高のっぽは一番後ろ 毎週入れ替えがあっておもしろかった。

柱のきずは5月5日だけじゃたりない

日々の変化を見たくなる

 

生まれ順が一番で背が高ければボス的存在になる。加えて成績が良ければオール一番、委員長も揺るぎない。

そういう時代・社会だった

何事にも例外はあることは当たり前だが

 

☆は17番

この先一時19番はあったけど中学卒業までほぼ17番 学年が変わりメンバーが替わってもなぜか☆は50人クラスの17番だった

男女別番号で男女はほぼ同数 うまくいってた時代

17番は真ん中より後ろより

 

いつしか17番は自分の番号

割り算ではあまり「1」の位置

固有の17番

一番よりすてきな17番

一時期もらった19番も孤独の番号、

我一人 染まらない番号だ

などと思い入れは大きく膨らむ

17も19も素数と知ってからは素数が大好きになり延々と素数を探し求める☆。

パソコンなんてない時代、ひたすらこだわりと努力で懲りまくる

父が間違いをただしてくれると満面の笑みで喜ぶ

(父は目は☆の何処を見ていたのだろう) と 思うのは今の☆である

平均律を追い求める人を「そんなの求めてなんになる」などとバカにできない話である

 

自分のことは棚に上げるものである

 

柱のきず=唱歌「背比べ」 柱に傷つけると叱られる、と教科書から消えた曲

柱のきずはおととしの

5月5日のせいくらべ

ちまき喰べ喰べ兄さんが

はかってくれたせいのたけ

昨日くらべりゃなんのこと

やっと羽織のひものたけ

 

席順2

担任は森田先生=故人

男女並んで1つの机。

横4列8人縦6列+ だった たぶん。

☆は窓から2列目の一番前で17番目じゃない

前列廊下から2番目の一番前の女子も順番じゃない

 

森田先生 ☆産は目が悪いから黒板が良く見える席です

☆は考える、目が悪い?私見えるよ

☆は「めくら」の意味をまだよくわかっていない。

「見えない」の意味も状態」もよくわかっていない

でも☆は特別が心地いい

森 あつ子さんは足の指が4本しかありません

でもほかはみんなと変わりないです

じゅん子さんは心臓が悪いので走ることができません

じゅん子さんはおやすみも多いけれど仲良くしましょう

的なことを言った

 

さあ 休み時間はあつ子さんの足が見たい

あつ子さんは靴下をはいていない

一番前だから見学スペースは十分ある

廊下側に近いのはよそのクラスからも見学客があふれるからだ

数日間 あつ子さんは見世物になった

☆はみたい みたい みたい

けど 見えない 足の指の本数なんてわからない

靴下をはいていない足は見えるのに指の本数なんてわからない

大きい学年の生徒も並んで見に来るのに☆には見えない

具体的に「周りとの違い」を教えられる

数日もすれば見学客も来なくなる

あつ子さんは平和を手に入れた

誰も足指の本数など気にしなくなり、そのうちに違いなど忘れられた

あつ子さんはとっても元気で友達もたくさんできてただの人になった

障害者位置抜け、一抜けたー クラスの障害児は二人となった

 

あつ子さんのお父さんは☆に語る

森田先生は入学前 かなり長い時間をかけてあつ子さんの両親と掛け合ったそうだ

毎日家を訪問し あつ子さんに靴下をはかずに学校に来るように諭したという

いやがって泣くあつ子さんに 一週間がまんすれば誰も気にしなくなるからがんばろうね、と、それはもう 毎日かかさず説得に来たそうだ

根負けしたあつ子さんは約束通り入学式の翌日から靴下をはかなかった

教室は休み時間のたびに学年関係無くあつ子さんの足を見に行列ができた

「足の指が4本だって、どの指がないのかな」と話声も聞こえる

あつ子さんは下を向きながら足を隠さず耐えた

☆は満足して通り過ぎる人たちを見ていた

森田先生は人だかりがなくなるまで あつ子さんの家庭訪問を続け励ました

あつ子さんんのお父さんは「いい先生と会えて良かった」と何度も言う

一生かたわで形見の狭い思いをするのかと心配したけれど、あんなに元気に裸足で走れるようになったんだからこれからも大丈夫だろう、

最初はね、さらし者にすると聞いてほんとうに怒った

なんて人が担任になるのか、と だけど熱心でね

自分も緑内障があって視力がどんどん落ちてきて

ほかの先生たちにいやな目で見られてつらい思いをたくさんしているけれど

助けてくれる人もたくさんいてね、理解しあえることが大切だとわかったんです、と言われて ならば賭けてみるか ということになって、あつ子も折れてね

森田先生は学校でもすごく声をかけてくれて

毎日にも来てくれて励ましてくれて もう足のことなんて気にしなくなって・・・・・

☆は心からうれしい

小学校3年生だったけどおじさんのお話はとてもあったかくってうれしかった

あつ子さんとは4年生のクラス替えでさよならだった

☆は結局足指4本を見られなかった 残念なのは言うまでもない

☆は正直なのだ

 

おじさんはなぜ難しいお話を☆にしてくれたのだろう

きっと☆にも元気に生き抜いてほしいと願ってくれたんだろう

乗り越えたあつ子さんとはちがい、これから先に来るであろう世の中の重圧に耐えるように、乗り越えるきっかけになるように、きっと心を込めて話してくれたのだろう。

ありがとう あつ子さんのおとうさん

 

席順 3

 

じゅんこさんは順番通りの席にいた

目が悪いわけじゃないし 足指が足りないわけでもないから当然だ

ちっちゃな身体で全校朝礼は一番前確定

とっても優しくて☆はすぐ友達になった

 

じゅん子さんとはしょっちゅう二人で話をした

友達から特別の仲良しになった

じゅん子さんは心臓弁膜症といって身体が大きくなると死んでしまうと言う

いつも死と向かい合わせで生きていると言う

☆は「死」がわからない

じゅん子さんは「死」と向き合っている

本当は学校にも来れないらしい

けど

じゅん子さんは学校に通って友達を作っておしゃべりをしたかった

だから両親におねだりをしたのだそうだ

 

ある日 ☆は校庭を突っ走っていた

☆は元気だ 走ることが大素手だ

そして石が見えないのだ

膝は擦り傷と打撲でいつもかさぶたがあるくらい走るのが好きだ

学校の校庭は足が引っかかるほどの石がほとんどない

だから おもいっきり走っても転ばない

☆は校庭が大好きで 用もないのに走り回った

滅多にない石につまずいてすっ飛ぶほどひっくり返った

運悪くじゅん子さんが二階から見ていた

じゅん子さんは自ら走って一番に駆けつけてくれた

「☆さん大丈夫?」

ちっちゃな身体で手をさしのべてくれる

おもわず じゅん子ちゃん、走っちゃだめ」

じゅん子さんの手は うれしそうで悲しそうで とてもあたたかい

私はほっておかれ先生はじゅん子さんを保健室へ抱いていった。

その後いつまでたってもじゅん子さんは学校には来なかった

じゅん子さんに会えたのは季節が変わってから

「わたし 生きたい」

じゅん子さんは生きるために名古屋と言うとっても遠い病院に行くことを決めたと言う

そこは病院学校があって 入院しながら勉強ができるそうだ

「病気も治して 学校にも行って また☆さんと逢いたい」

それがじゅん子さんとのお別れの言葉だった

2年生の終わりに転校していった

森田先生は じゅん子さんが生きることを望んで手術を受けるために両親と別れて遠い病院へ行きます。また会える日を楽しみにしましょう

と送り出した

4年生で亡くなったと聞く

クラスの障害児は☆一人になった

 

森田先生はじゅん子さんの家にも頻繁に訪問し励ましたという

自宅療養が望ましいが、いずれ、たぶん10才を超えられない命

ならば 生きる喜びを知ってほしい

一日でも長く生きてほしいが檻の中で死ぬために生きるのではなく

希望を胸に「生」を望んでほしい

死を覚悟した7・8才なんて胸が痛む

少しでも同じ年代の輪のなかで輝いてほしい

森田先生はそう思ったそうだ

当時 先天性の心臓弁膜症は10才を超えられない

10才ころに人の身体は大きく成長するらしい

それに心臓が耐えられないと言う

諦めることをやめたじゅん子さんは☆の星だ

 

その年度で森田先生は教師を辞めた。緑内障が進んで限界だと・・

 

席順 3

 

☆の席は黒板が一番よく見える席 17番の席じゃない

森田先生はいう

☆さんは目が悪いので席は黒板が見えるように一番前にします

☆さんは目が悪いけれどもほかはどこも悪くありません

走ることも同じにできます

鬼ごっこもかくれんぼもみんなとできます

 

席替えがあっても☆は定位置でクラス内に疑問がない

 

☆は森田先生がいた2年間特別を感じたことがない

特別なのはあつ子さんの最初のころとじゅん子さんだけだ

めいっぱい学校生活を楽しんだ

幼稚園の頃の疎外感を思い出すことは皆無だった